服部嵐雪関連エントリー

服部嵐雪 梅一輪

服部嵐雪(1654-1707) 梅一輪一輪ほどのあたたかさ 玄峰集・庭の巻

服部嵐雪 梅一輪

「梅一輪一輪ほどのあたたかさ」(服部嵐雪)

【3月7日(火)】 きのうの雨ときょうの暖かさで、 我が家の庭の梅の花が、一気に開きました。 「梅一輪一輪ほどのあたたかさ」 (服部嵐雪) ひとつ、ふたつ、みっつ、、、、 五輪ぐらい、暖かいかな?? 2006.03.07 [Tue] 17:20

「梅一輪一輪ほどのあたたかさ」(服部嵐雪)

梅一輪

もうすぐ3月。春間近。 ふと、こんな句を思い出しました。 梅一輪 一輪ほどの暖かさ 服部 嵐雪 トラックバック URL :

梅一輪

ウメイチリン

『梅一輪 一輪ほどの 暖かさ』 服部嵐雪 ということで、都心では早くもウメが終わろうかとのことですが、 こちらはビミョウに寒さぶり返す今日この頃。 写真も体調もイマイチですにゃぁ。。。 ...

ウメイチリン

[日々]梅一輪 一輪ほどの暖かさ(服部嵐雪)

今日 は奥さんが 会社 の方々と スキー に行っておりまして、一人身です。 新潟 は朝から良い 天気 。。。 ということで、鳥屋野潟の 新潟県 スポーツ 公園 ( 今日 まで正式名称を知りませんでした)まで行って ...

[日々]梅一輪 一輪ほどの暖かさ(服部嵐雪)

服部嵐雪とは?

服部 嵐雪(はっとり らんせつ、承応3年(1654年) - 宝永4年10月13日 (旧暦) 10月13日(1707年11月6日))は、江戸時代 江戸前期の俳人。幼名は久馬之助、通称は孫之丞、彦兵衛など。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、玄峯堂など。江戸湯島生まれ。松尾芭蕉の高弟。雪門の祖。
服部家は淡路国 淡路出身の武家で、父服部喜太夫高治も常陸国 常陸麻生藩主・新庄直時などに仕えた下級武士で、長男である嵐雪も一時、常陸笠間藩主の井上正利に仕えたことがある。若い頃は相当な不良青年で悪所通いは日常茶飯事であった。1673年、松尾芭蕉に入門、蕉門で最古参の一人となる。1678年、不卜編『俳諧江戸広小路』に付句が2句入集したのが作品の初見である。1680年には同門宝井其角の『田舎之句合』に序を草し、『桃青門弟独吟廿歌仙』に入集、以後『虚栗(みなしぐり)』、『続虚栗』などに作品を採用された。1688年には『若水』を刊行し、同年立机して宗匠となり、1690年には『其机(そのふくろ)』を刊行して俳名を高めた。1694年、『露払』の斤にからんで深川蕉門との対立を生じ、代えて『或時集(あるときしゆう)』を刊行。また翌年には芭蕉の一周忌追善集『若菜集』を刊行した。作風は柔和な温雅さを特徴とする。芭蕉は嵐雪の才能を高く評価し、1692年3月3日 (旧暦) 3月3日の桃の節句に「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称えたが、芭蕉の奥州行脚にも嵐雪は送別吟を贈っていないなど、師弟関係に軋みが発生していた。1694年10月22日 (旧暦) 10月22日、江戸で芭蕉の訃報を聞く。その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開き、桃隣と一緒に芭蕉が葬られた膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下にかくねむるらん雪仏」であった。其角と実力は拮抗し、芭蕉をして「両の手に桃と桜や草の蛭」と詠んだ程であったが、芭蕉没後は江戸俳壇を其角と二分する趣があった。1707年10月13日没。享年54。追善集に百里斤『風の上』など。その門流は、雪門として特に中興期以後一派を形成した。

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